三宅清七(当時33歳)が味醂・焼酎・白酒製造業をはじめ、屋号を地名の鹿田河内にちなんで「河内屋」と称す。清酒醸造に踏み切ったのは、明治35年(1902年)のことであった。
「呉菊」、「呉鶴」、「吾妻川」、「吾妻川正宗」に次ぐ第5番目の商標として「千福」が登録商標を受ける。初代三宅清兵衛の「女性は内助の功を称えられるばかりで、酬いられることが少ないのは気の毒である。せめて酒銘だけでも女性の名前を用いたい」という思いから、母(フク)と妻(千登)の一文字づつを用いて「千福」を命名した。
練習艦「浅間」に『呉鶴』を満載して練習航海に出航する(南アフリカ、南アメリカ方面) 220日余りの航海中、何回かの赤道通過にも変質、変味がなかったとして高く評価を受け、証明書を手交された。 以後全海軍基地へ『千福』が納入される。
「千福」が海軍御用達のお酒として、艦隊に納品される中で、「戦艦大和」にも納品される。
当時の納品証明書等は残っていないが、「ヤマトミュージアム」の海中の戦艦大和の映像には、「千福」のラベルは貼っていないが、当時の「千福」の瓶の映像が映し出されている。
当時、中国にも2つ工場があり、国内の造石量を合わせると、一時的に日本一の石数を記録した。
その功績を称え、酒王を酒銘に入れ込むことになった。
春、新装備を誇る「呉宝蔵」が完成し、命名は池田勇人元首相にしていただいた。
三宅本店近くには「呉宝橋」がある。
当時は、高級酒は不振、例外的な冷夏・長雨の結果、2級酒が久しぶりに2桁台の伸びとなる。軽量でコンパクト・割れない・輸送コストが安い・遮光性が大きく品質保持に良い等の理由で、「ふくぱっく」を発売。
1980年のカープ優勝を記念して、「Victory(勝利)」の頭文字をとったVパックを発売する。以後現在にいたるまで千福の看板商品となる。
絞ったばかりの新酒の味をきき酒されて「このお酒で晩酌ができればいいな」とお言葉を頂く。
日本酒を世界に伝えたいという思いから、中国の上海に三宅本店が出資し三宅(上海)商務信息諮詢有限公司を設立。
活動拠点を少しずつ拡大し、日本酒を中心に日本の文化を広めていく。
広島県と共同して、フランスでの日本酒啓蒙活動を平成26年から始めており、千福からは「神力生もと純米無濾過原酒85」「純米酒」が輸出され、実際にフランスの店頭で並ぶようになった。特に「神力生もと純米無濾過原酒85」はフランスの方に好評で、著名な料理店にも置かれるようになった。